結局は高須。高須を食える糞ガキはもう出ないのか
「水ダウおもろいわ〜」
「そうか?」
「ガキ使はもう終わりやな。時代は水ダウや!」
どっちにしても結局は高須である。
お笑い芸人が小粒なのはいまさら言うまでもない。かつていたギターを抱えた気色の悪い玉無しロン毛どもは正当な評価として無価値とされ、いまや糞つまらない遅いテンポの糞芸人が価値あるお笑い芸人として跳梁跋扈している。
しかし重大な問題は作家が大御所の金魚の糞しかいないという点にある。
高須がつまらないという訳ではない。しかし高須の笑いはもはや揃えたパターンを煎じ詰める段階に入っており、新しいものはありえない。絶対に高須から外れた新しい笑いは出てこない。
にもかかわらず、作家は裏でこそこそどころか臆面もなく高須の影響を受けて高須の笑いを作っている。
せめて作家と名乗らずに高須のオナホと名乗れば許せるのだが。